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和歌山県「慈尊院と丹生都比売神社」

 「慈尊院(じそんいん)」と「丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)」とは自家用車かタクシーを使わないかぎり、アクセスの方法はそれぞれ異なるが、「慈尊院」と「丹生都比売神社」は共に平成16年7月に『紀伊山地の霊場と参詣道』の一環として『世界遺産』に登録されているので、ここでは同一のページに記載した。

所在地:


 慈尊院      :和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832
 丹生都比売神社:和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230




万年山慈尊院

アクセス:

 南海電鉄高野線「九度山」駅下車。すぐ北側に信号のある交差点があるので、そこを西側に向かって(左折)進む。すぐ丹生川を渡るが、約200m進むと再び丹生川を渡る。この橋を渡り北西の方向に道なりに約550m進むと信号のある交差点があるので、ここを西の方に進み丹生川にかかっている橋を渡る。渡るとすぐに信号のある交差点があるので、これを北の方向(右折)に進む。暫くすると右手に紀ノ川が見えるので紀ノ川沿いに北西の方向に約800m進むと左手に慈尊院に通じる道があるので、ここを左折し道なりに進むと慈尊院の山門に着く。「九度山」駅から約1.8km、徒歩約25分。

宗派:高野山真言宗

本尊:弥勒菩薩

開基:空海(弘法大師)

縁起:
朱印
 慈尊院は弘仁7年(816年)に空海(弘法大師)によって開かれ、当初は慈氏寺と呼ばれていたと伝えられている。

 弘法大師は高野開山に際し、高野山参詣の玄関口として伽藍を整え高野山の庶務を司る高野政所をここに置いたとされている。高野政所は高野参詣時の宿所にもなり、藤原道長や鳥羽・後宇多上皇などが利用したという。

 弘法大師の母が香川県善通寺から高齢をおして訪ねてきたが、高野山への女人の立ち入りを厳しく禁じていた弘法大師は母をも入山を許さなかった。弘法大師の母は慈尊院に住んでいたが承和2年(835年)2月に83歳で逝去した。母は本尊弥勒菩薩を深く信仰していたため、入滅して本尊に化身したという信仰になり、女人の高野参りはここ慈尊院ということになり女人高野とよばれるようになった。

 もともと慈尊院は紀ノ川の河川敷に位置していたが、洪水によって伽藍が流され、天文9年(1540年)に現在の場所に移されたといわれている。

 この地を九度山と呼んでいるが、これは弘法大師は月に9度は高野山から山道を下り母を訪ねられたことに由来しているという。

 

境内堂宇配置:
堂宇配置図
 左図は「慈尊院」の境内堂宇配置である。「慈尊院」の南側に石段を通して高い位置に「丹生官省符神社」がある。この石段の途中に高野山街道の最初の町石がある。

見所など:
山門
 左の写真は慈尊院の「山門」である。「山門」は四脚門で大きくはなく質素であるが、規模から見て大寺とは言い難い慈尊院には良く調和してしているのではなかろうか。
山門標識(左) 山門標識(右)
 左の2枚の写真は「山門」に掛けられている「慈尊院の寺名札」である。

 左側の写真は「山門」の左側に掛けられている寺名札で、寺名の他に 『世界遺産』の文字と『高野町石道祈りの道出発点』の文字が見られる。

 右側の写真は「山門」の右側に掛けられているもので、寺名と共に『女人高野』の文字が見られる。

 本論と関係ないかもしれないが、「女人高野」と呼ばれている寺院は他に奈良県宇陀市の室生寺と大阪府河内長野市の金剛寺がある。
弘法大師堂
 「山門」をくぐるとすぐ右手に「弘法大師堂(大師堂・護摩堂)」(左の写真)が見える。

 この堂には弘法大師が本尊として祀られている。
多宝塔
 「弘法大師堂(大師堂)」の南側に一寸した広場を隔てて「多宝塔」(左の写真)が建てられている。

 「多宝塔」は弘法大師によって建立されたと伝えられているが、現存の「多宝塔」は寛永年間(1624〜1643年)に再建されたものといわれている。「多宝塔」に祀られている本尊は大日如来である。
拝堂(1)
 「多宝塔」の東側、「山門」から「丹生官省符神社」に上る石段の下まで通じている参道を隔てて「拝堂」(左の写真)が建てられている。左の写真は「拝堂」の西面と南面である。

 「拝堂」の南面が正面になっているが、これは「拝堂」の北側にある「本堂(弥勒堂)」に安置されていの本尊を礼拝するようになっているためであろう。
拝堂(2)
 左の写真は「拝堂」の東面である。写真でもわかるように、何故か東面にはユーモラスな小坊主の像が置かれている。
拝堂内部
 左の写真は「拝堂」南面から見た内部である。内部には数多くの吊り灯籠が見られ絢爛としており、外から見た地味な感じのする「拝堂」とは印象がかなり異なる。内部は椅子が置かれ、一寸見には神社の拝殿風なところがあるように感じられる。
本堂(弥勒堂)
 「拝堂」の北側に「本堂」(左の写真)があり、ここに「慈尊院」の本尊「弥勒菩薩」が安置されている。このことから「本堂」は「弥勒堂」や「廟堂」とも呼ばれている。

 「本堂」は平安末期の様式を残しているようであるが、内部は鎌倉時代、外部は室町時代に修理されたと伝えられている。

 「弥勒堂」は弘法大師の創建になるものいわれ、当初の本尊「弥勒菩薩」は弘法大師の作になると伝えられていたが、現存の本尊「弥勒菩薩」は寛平4年(892年)の銘があるようで、作者は会理仏師とされている。これが正しいとすれば、この本尊が製作されたのは、弘法大師の母の死後約60年を経過しているので、大師の母が信仰していた弥勒菩薩ではないことになる。

 本尊「弥勒菩薩」は厳重な秘仏とされ、国宝に指定されている。
乳房形絵馬
 弘法大師の母が入滅して弥勒菩薩に化身したという信仰から、慈尊院が女人高野と呼ばれるようになったと言うことは縁起の項に記載したが、このことから女性の信仰が篤く、女性の厄除けに「乳房形の絵馬」(左の写真)が奉納されている。
絵馬
 上述した「乳房形絵馬」は「慈尊院」だけに見られる絵馬であるが、その数は少なく、多くは左の写真に見られるような「絵馬」が用いられている。この絵馬も乳房が描かれており、「慈尊院」にのみ見られる絵馬であろう。この裏面に願い事や住所氏名など書いて奉納する。
有吉佐和子「紀の川」より
 境内には左の写真に見られるように、有吉佐和子の「紀の川」の一部が書かれた掲示がある。ここには短い文章ではあるが、慈尊院の成り立ちや信仰のことが適切に語られている。
寺名石碑
 「本堂(弥勒堂)」の東側に「慈尊院」の寺名が彫られた大きな石が置かれている。

 この石は「慈尊院」がユネスコ世界遺産に登録されたのを記念して、平山郁夫氏の筆により書かれ彫られたものである。
町石
 「山門」から真っ直ぐに南の方向に進むと「丹生官省符神社」に上がる石段がある。その石段を少し上がると右手に「町石」(左の写真)が見える。

 「慈尊院」から高野山までの参道(町石道)に、一町(約109m)毎に道標が建てられているが、当初は木造の卒塔婆だったという。その後、文永2年(1265年)から20年の年月をかけて石造りに改められたといわれている。現在まで若干の補修があったようであるが、多くは創建当時のままらしい。

 左の写真は「慈尊院」にある第一番目の道標、「町石」である。

 「町石」は写真でもわかるように高さ約3mの石柱で、「慈尊院」から高野山の伽藍まで180本、伽藍から奥の院御廟まで36本ある。「町石」は道標であるが卒塔婆でもあり、かつて参拝者は一町毎に手を合わせ祈りながら登山したという。町石道は「山門」の寺名札にも書かれているように『祈りの道』である。







丹生都比売神社
(にうつひめじんじゃ

アクセス:

 JR和歌山線「笠田(かせだ)」駅下車。「笠田駅前」から、かつらぎ町コミュニティバス「丹生都比売神社前」行きに乗車し、終点で下車する。バス乗車時間約30分。(バス時刻は下記の時刻表参照)

 かつらぎ町コミュニティバスを利用しないで徒歩による場合は、高野山町石道を通る。南海電鉄高野線「九度山駅」下車。このページの「慈尊院」へのアクセスの項に記載した方法で「慈尊院」まで行き、そこから「丹生都比売神社」まで高野山町石道を通る。「九度山駅」から「丹生都比売神社」まで徒歩約2時間30分。

 かつらぎ町コミュニティバスの発車時刻は次の通り(2018年11月現在)。但し12月31日〜1月3日の間運休するが、1月1日〜1月3日の間はJR「橋本」駅から別のバスが運行している(バス時刻記載省略)。

笠田駅前発 丹生都比売神社前発
 7 10 40
 8 10  
 9   10
10 00   
11   00 
12 00  
13   00
14    
15 55  
16   30
17 25
18 05 

祭神、神徳:

第一殿 丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)(丹生明神)
 種々の災いを退け全てを守り育てる女神。不老長寿、農業の守り神。
第二殿 高野御子大神
(たかのみこのおおかみ)(狩場明神)
 弘法大師を高野山に導いた神。人を幸福へ導く神。
第三殿 大食都比売大神
(おおげつひめのおおかみ)(気比明神)
 食物全てを守る女神。
第四殿 市杵島比売大神
(いちきしまひめのおおかみ)(厳島明神)
 財運と芸能の女神。

由緒:
朱印
 「丹生都比売神社」が創建されたのは空海が高野山を開創した時期よりも古く、今から約1700年前のことと伝えられている。

 丹生都比売大神は天照大御神の妹神で神代に紀ノ川流域に降臨し、紀州、大和に農耕を広め今の天野の地に鎮座されたという。丹は朱砂の鉱石から採れる朱を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の地名と神社があるといわれている。丹生都比売大神はここに本拠を置く日本の朱砂を支配する一族の祀る女神とされている。

 高野御子大神は丹生都比売大神の子で密教の道場を求めていた弘法大師の前に現れ高野山へ導いたと伝えられている。弘法大師は神領である高野山を丹生都比売大神より譲り受け高野山を開いたという。以来、「丹生都比売神社」は高野山と深い関係が生じることになる。

 「丹生都比売神社」は高野山参詣の表参道である町石道の途中にあり、かつてはここに参拝した後、高野山に上るのが普通だったようである。

 鎌倉時代に気比神宮から大食都比売大神が、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子より寄進されて本殿が四殿となった。

境内社殿等配置:
丹生都比売神社境内配置

見所など:
神社名の石碑
 境内の入り口に当たる「外鳥居」(後述)の近くに、左の写真に見られるような神社名が彫られた「石碑」が建てられている。いつ頃作られたものかはわからないが、風化が進んでいるように思われ、神社名が読みにくくなっている。
外鳥居
 道路に面して「外鳥居」(左の写真)が建てられおり、この場所から東南の方向に向かって直線状につけられた参道が本殿前の楼門まで続いている。

 「外鳥居」は朱塗りの本柱の前後に稚児柱が設けられ屋根がつけられており、仏教神道が大きく反映されている鳥居といわれている。

 「外鳥居」の奥に見えるのは後述する「輪橋」である。
輪橋(1)
 上述の「外鳥居」をくぐって境内を奥に進むと左の写真に見られるように朱に塗られた「輪橋」がある。橋は鏡池に架けられ、橋脚はかつては木製であったといわれているが、現在は石造りになっている。

 左の写真では橋を渡れないように縄が張られている。参道を奥に進むためには写真にも見られるように、橋の左側にバイパスが設けられているので、ここを通る。

 平安、鎌倉時代には神事がこの「輪橋」の上で行われていたという。つまり、「輪橋」は神の渡る橋とされていたようである。
輪橋(2)
 左の写真は夏に撮影した「輪橋」で、人が橋を渡っているが、夏のように雪の降らない季節には、「輪橋」を渡って奥に進むことが出来る。写真でもわかるように、橋を渡り易くするために勾配の急な部分に桟がつけられている。このような橋を渡るのが苦手な人や雨の日などは滑る可能性があるため、直上の写真にも見られるように橋の左側に設けられたバイパスを通って、橋を渡らずに参道を奥に進むことができる。
輪橋と鏡池
 駐車場から見た「鏡池」とそれに架かる「輪橋」が左の写真である。

 かつて八百比丘尼
(やおびくに)という尼僧が居て、不老長寿を体得していた。この尼僧が池に映った自分の姿が老いて行かないのを知り、それを嘆いて鏡をこの池に投げ入れたという伝説があるという。
禊橋と中鳥居(1)
 「輪橋」を通り過ぎると禊川に架かっている「禊橋」(左の写真)があり、その奥に隣接して「中鳥居」(左の写真)が建てられている。左の写真で参道の奥に見える建物が「楼門」(後述)である。
禊橋と中鳥居(2)
 左の写真は「楼門」に近い側から「中鳥居」「禊橋」を見たもので、写真奥に「輪橋」が見える。
楼門
 「禊橋」を渡り「中鳥居}をくぐり、参道を進むと「楼門」(左の写真)に着く。

 「楼門」は入母屋造り檜皮葺きの堂々とした建築で室町時代中期、1499年の建立になるものといわれている。

 「楼門」は重要文化財に指定されている。
楼門内から見た本殿(1)
 左の写真(2008年10月撮影)は「楼門」内から見た「本殿」である。写真で正面に見えている「本殿」は、向かって右側は「第二殿」、その左側が「第三殿」、写真右端にわずかに見えているのが「第一殿」で最左端にある「第四殿」は殆ど見えていない。

 
楼門内から見た本殿(2)
 左の写真は「楼門」内から見た「本殿(第三殿)」である。

 それぞれの「本殿」内に「宮殿」が置かれ、宮殿内にご神体が祀られている。

 各「本殿」は一間社春日造り檜皮葺きで文明元年(1469年)の再建になるものといわれているが、「宮殿」はそれより古く鎌倉時代のものらしい。

 本殿(四殿とも)及び宮殿(四殿とも)は重要文化財に指定されている。

社宝について:

 「丹生都比売神社」は天野大社とも呼ばれ格式の高い神社として、この地域では官弊大社と言えばこの「丹生都比売神社」のことを指しており、それだけに多くの社宝を所蔵している。

 国宝に指定されている「銀銅蛭巻太刀拵
(ぎんどうひるまきたちごしらえ)」は当神社伝来の太刀外装類中、堅牢優美な蛭巻の逸品として著名である。十二世紀、平安末期頃に製作されたものといわれている。現在、東京国立博物館に保管されているようである。

 重要文化財に指定されているものとして、上述した「楼門」、「本殿」、「宮殿」の他に「木造狛犬四対」、「木造鍍金装神輿二基」、「金銅琵琶一面」、「法華経八巻」など七点所蔵しているが、その殆どは奈良、東京の国立博物館に保管されているようである。

最終更新:2013年1月30日
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