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兵庫県「姫路城」

姫路城所在地図 姫路城へのアクセス

 JR姫路駅又は山陽電鉄姫路駅下車、大手前通りを北の方向へ徒歩約15分。

姫路城の生い立ち、歴史

 姫路城は赤松則村が元弘3年(1333年)にここに砦を築き、正平元年(1346年)に則村の子、貞範が城を構えたことにはじまるという。
 その後、天正8年(1580年)に羽柴秀吉が三層の天守閣を持つ大城郭を完成させたとされている。
 関ヶ原の戦役の後、徳川家康の女婿である池田輝政が城主になり、慶長6年(1601年)から8年間の年月を費やして、現在の規模の城郭にしたといわれている。
 以来、姫路城は戦火も含め火災に遭うこともなかったようで、第二次世界大戦で市街が焦土となったときも城は何事もなかったため、奇跡の城とも称されている。
記念スタンプ  もっとも、明治43年(1910年)には大修理、また、昭和31年(1956年)から8年の年月をかけて天守閣群の解体修理が行われたようである。

 姫路城は日本を代表する完成された城郭建築とされ、
8棟国宝に、74棟重要文化財に指定されたいる。また、ユネスコ世界文化遺産に登録されている。


大手門から城内へ

 大手門(桜門)をとおり城内に入ると三の丸広場になるが、そこに「世界遺産 姫路城」と刻まれた大きな石が置かれている(直下の写真)。この場所から天守閣を遠望することができ、ここはこの石と天守閣を背景にして記念写真を撮影するスポットになっているようである。
天守閣遠望
西の丸と千姫

 城郭の入口に当たる「菱の門」をくぐり西側に向かう石段を上がると、「西の丸」に出る。

 西の丸の長く薄暗い「渡櫓(百間廊下)」を通ると「化粧櫓」に着く。西の丸は千姫が本多忠刻に嫁いでから生活した場であるとされているが、「化粧櫓」には千姫が座ってカルタ遊びをしていると思われる人形が置かれている部屋がある。


 千姫は本多忠刻と再婚し、姫路城に住んだことが幸せだったのだろうか。化粧櫓の人形や部屋の様子などから見て、幸せそうな雰囲気がまるで伝わってこない。むしろ悲しげな千姫という感じを受ける。見る人の自由な想像力をかきたてる意味からこのような人形はない方がいいのではなかろうか。

転用石
転用石(1) 転用石(2)
 直上の二枚の写真は「転用石」といわれているものである。左の写真は灯籠の台座が「はの門」の右端の柱の礎石として用いられているものであり、右の写真は石棺が石垣の石として用いられているものである。

 いずれにしても築城に際し、石が不足したためといわれているが、
何ともできすぎた話しである。随分立派な城であり、むしろ贅沢な造りをしているのである。転用石の使用量は全体で使われている石の量からすると誤差の範囲であろう。転用石は非常に目につきやすい所に使われているようである。石不足というより何か他の理由があるように思えてならない。
姥が石
姥が石

 「ほの門」をくぐると天守閣の石垣に「姥が石」が見える(左の写真で金網で囲った石)。

 秀吉が築城した際、石が不足しているということを聞き、町の貧しい老婆が石臼を寄付したのがこの「姥が石」であるといわれている。この話を聞いた多くの人が石を提供し、城の石垣が完成したという。


  これもよくできた話しで、いささかひがみっぽいかもしれないが政略的なものを感じるのである。秀吉には多くの民衆の支持があり、城の建設にも民衆が積極的に協力したという話しがほしかったととれないこともない。丈夫な石垣は雑多な石を寄せ集めてできるものではない。上述の「転用石」の話しと相通ずるものがあるような気がする。
西の丸から見た天守閣
天守閣

 左の写真は西の丸からみた天守閣で、写真ではハッキリしないが、西の丸からは天守閣が最も美しく見えるといわれている。

 直下の写真は天守閣の南側の広場、備前丸から見た天守閣(大天守)である。備前丸は現在広場になっているが、ここには池田輝政が城主であった時代には御殿が建てられていたといわれている。この御殿は明治15年(1882年)に焼失したという。
備前丸から見た天守閣
 天守閣群はほぼ方形の四隅に四つの天守とそれらを繋ぐ四つの渡櫓からなっている。

 四つの天守の内、最も大きい天守は「大天守」と呼ばれ、外観5層(内部は地上6階、地下1階)の造りになっている(左の写真)。大天守の西側に外観3層(3階)の「西小天守」、北側に外観3層(3階)に「東小天守」、北西側に外観3層(4階)の「乾小天守」が建っている。

 大きな大天守を支えるためには極めて強固な構造をとる必要があるが、中央部東側と西側に立てられた東大柱と西側に立てられた西大柱がその重要な役割をはたしているようである。この柱は天守閣(大天守)に登る際に見ることができる。


 「大天守」、「西小天守」、「東小天守」、「乾小天守」及びそれらを繋ぐ四つの「渡櫓」(イ、ロ、ハ、ニの渡櫓)の8棟は国宝に指定されている。
腹切丸
腹切丸

 備前丸の広場の東側石垣下に「腹切丸」(左の写真)という奇妙な名前の建物があるが、これは本来、敵の攻撃を防ぐための櫓だったといわれている。

 この建物の周囲の雰囲気、石打棚が検死役人の座、下の板場が切腹場、前の井戸の水で首を洗うように見えるため、いつの時代からか分からないようであるが、「腹切丸」といわれるようになったという。しかし、実際には腹切りが行われたという証拠はないらしい。
 ただ、この建物は何となく陰気な感じがするのは事実である。
お菊井戸
お菊井戸

 備前丸広場の南側石垣下に「お菊井戸」(左の写真)がある。

 当時の城主、小寺則職の家老であった青山鉄山がお家乗っ取りを企てているのをお菊が察知し、家老の恨みをかう。家老の手下が家宝の皿の一枚を隠し、これをお菊の責任とし、お菊を責め殺し、この井戸に投げ込んだという。以来、夜になるとお菊の亡霊が現れ、皿を数える声が聞こえたといわれている。
埋門
 これは有名な伝説であり、姫路城に限らず方々にあるようで、浄瑠璃「播州皿屋敷」、岡本綺堂作「番町皿屋敷」、河竹黙阿弥の「新皿屋敷月雨暈」など劇化されている。

その他見所など

 城郭への出入口「菱の門」の近くにある「埋門」(左の写真)、「ほの門」から天守閣の方に向かって入ったところに、秀吉築城の時の壁と考えられている「油壁」、天守閣の中にある昔の「トイレ」、また、天守閣の北側にある弧を画いた建物、「腰曲輪」など、興味を引くものが多い。

 姫路城を見学に来て、天守閣に上り、上から姫路市街を眺めただけで、さっさと帰っていく人が多いようであるが、上記のようにつぶさに観察する事も面白いものである。
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Yukiyoshi Morimoto