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広島「原爆ドームと平和記念公園」

原爆ドームと平和記念公園へのアクセス:
原爆ドームと平和記念公園所在地図
 JR広島駅下車。駅南側の広島電鉄乗り場から[2系統]「広電宮島口」行き、又は[6系統]「江波」行の何れかの電車に乗り、「原爆ドーム前」で降りる。停留所すぐ南側に「原爆ドーム」がある。「原爆ドーム」横の元安川に沿って南下し元安橋を渡ると「平和記念公園」に着く。

原爆ドーム:
原爆ドーム(1)
 「原爆ドーム前」停留所で電車を降りて、電車が通っている国道183号線の南側を見ると「原爆ドーム」(左の写真)が見える。従ってこの写真は「原爆ドーム」の北面を見ていることになる。

 もともとこの建物は広島県産業奨励館で広島県の特産品の展示や催し物が開かれていたところである。
原爆ドーム(2)
 元安川に沿って南の方向に進むと近距離から原爆ドームを見ることができる。左の写真は西南側から見た「原爆ドーム」である。無残に破壊された壁面から原爆の持つ恐ろしい破壊力を十分に推測することが出来る。
原爆ドームの内部
 左の写真は西側から見た「原爆ドーム」の内部である。上述したように外壁からでも原爆のもつ恐るべき破壊力を十分に推測することができるが、内部を見ると鉄骨などがむき出しになっており、下は瓦礫の山でその惨状は目を覆うばかりである。
原爆ドーム遠望
 元安橋を渡り、対岸から「原爆ドーム」を見ると、周囲の近代的なビルの中に廃墟と化した「原爆ドーム」(左の写真:2001年撮影)が見え、その姿に孤高ささえ感じられる。

 厳密に言えば、原爆はこの原爆ドームの直上で爆発したのではなく、この建物の東南約160m離れている現在の島外科病院の約580m上空で爆発したという。島外科に密接して西側の道端にこの場所が爆心地であった旨の説明標識がある。
原爆被災前の産業奨励館
 左の写真は原爆被災前の広島県産業奨励館である。この写真と被災後の建物を比較すると、原爆の被災により、建物中央正面部分はかろうじて骨格骨組みが残されたが、建物左右両側はほぼ完全に破壊されてしまっているのがわかる。

 なお、「原爆ドーム」はユネスコ世界遺産に登録されている。

平和記念公園:
原爆の子の像
 元安橋を渡って数10m進むと北側に「原爆の子の像」(左の写真)を見ることが出来る。

 写真でもわかるように、三脚のドーム型の台座の上に少女の像が立っている。この像を建てるに至ったきっかけは佐々木禎子さんという少女の死が関わっている。佐々木禎子さんは2歳の時に原爆に被爆したが、その時は外傷もなく元気に成長した。しかし、10年後の小学校6年の昭和29年(1954年)の秋に突然白血病を発病し、8ヶ月後の昭和30年(1955年)10月に死去した。

 禎子さんの死を知った一青年と禎子さんの同級生が、原爆で亡くなった全ての子供達のために慰霊碑を作る計画を立て全国に呼びかけ、海外からの支援も受けて、昭和33年(1958年)5月5日にこの像が完成した。

 像台座の下に置かれている石碑には『これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための』と刻まれている。

 写真で像の後方にカラフルな物が入ったボックス様の物が見えるが、これは折り鶴置き場である。折り鶴は最初、像の下に置かれていたが雨よけや度重なる放火事件の対策としてこの置き場が平成14年(2002年)4月に設けられた。
佐々木禎子さんの像
 左の写真は「原爆の子の像」でこの少女は佐々木禎子さんがモデルであると言われている。

 佐々木禎子さんは、鶴を千羽折ると病気が治る、と信じ闘病期間中包装紙などで鶴を折り続けたと言われている。像の少女、佐々木禎子さんが捧げ持っているのは折り続けたという折り鶴をかたどったものである。

 平和記念公園内には「平和の鐘」が三つあり、何れも核兵器全廃、恒久の平和を世界に伝えるため鳴らされる。

 その内の一つは「広島平和記念資料館」の東館にあり、毎年広島に原爆が投下された8月6日の平和記念式典で鳴らされている。

 もう一つは平和記念公園の北端で相生橋に渡る橋の近くにある平和の時計塔の鐘で、毎日、原爆が投下された8時15分に鳴らされる。これは所謂鐘の音ではなくチャイム音である。
平和の鐘
 更にもう一つの「平和の鐘」は「原爆の子の像」のやや西寄りの北側にある。左の写真がその「平和の鐘」である。この鐘は原爆被災者広島悲願結晶の会が昭和39年(1964年)9月20日に建立したもので、鐘造りで人間国宝になった香取正彦氏(故人)の作である。鐘には世界地図が浮き彫りされている。また、鐘の撞座には原子力のマークが描かれているが、これには原爆禁止の思いが込められているという。

 この「平和の鐘」は鐘が作られた趣旨、目的である平和を願って誰でも自由に撞き鳴らすことが出来る。
原爆供養塔
 上述の「平和の鐘」から南西側の少し離れた場所に「原爆供養塔」(左の写真)がある。

 この供養塔は昭和30年(1955年)7月に建立されたもので、各所に散在していた原爆被災者の遺骨がこの地下に設けられている納骨室に納められている。

 最初の供養塔は現在の「原爆供養塔」の約50m南側の場所に昭和21年(1946年)5月「広島市戦災死没者供養塔」が建立されたようであるが、その後、散在していた遺骨が集められ、現在の場所「原爆供養塔」に移された。

 元安橋を渡って「平和記念公園」の中を南の方向へ進むと「平和の灯」、「平和の池」があり、その南側に「原爆死没者慰霊碑」が建っている。正式な名称は「広島平和都市記念碑」であるが通称名である「原爆死没者慰霊碑」の方が一般的になっており、更にこれを省略して「原爆慰霊碑」とも呼ばれている。正式名称は漠然とした表現であり、通称名の方が的確な表現であるが、何故「原爆死没者慰霊碑」を正式名称にしなかったのであろうか。
原爆死没者慰霊碑
 左の写真は「原爆死没者慰霊碑」を西南側から見たものである。

 写真でもわかるように屋根が家形埴輪の形をしている。これは雨露から犠牲者の霊を守る意味を込めているという。設計は当時東大助教授であった丹下健三氏によるもので、昭和27年(1952年)8月6日に除幕式が行われた。慰霊碑は当初コンクリートで作られていたが老朽化により昭和60年(1985年)に御影石製に変えられた。
原爆戦没者慰霊碑(2)
 左の写真は「原爆死没者慰霊碑」を南側から見たもので、トンネル状の空間を通して「平和の灯」、遠くに「原爆ドーム」を直線上に見通すことが出来る。

 この中央に石室(石棺)がありその中に原爆被爆者の全ての人の氏名を記載した名簿が納められているという。この名簿は毎年更新され、被爆者の氏名が書き加えられているようである。

 石室には碑文が刻まれているが、この碑文は当時の広島市長、浜井信三氏の依頼を受け、当時の広島大学教授雑賀忠義氏(故人)が考案、揮毫したものである。碑文は『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』と書かれている。
慰霊碑の碑文
 左の写真は「原爆死没者慰霊碑」石室に刻まれている碑文である。

 この碑文の『過ち』は誰が犯したものか、ということで建立以前から議論があったという。これはこの文章に主語がないことに起因している。私の感覚からすれば、この文でいう『過ち』は日本人が犯したという風にとれるのであり、当時このように感じた人々も多く居たようである。

 主語は人類全体とするのものであって、誰のせいであるかということではなく、このような悲惨なことを繰り返してはならない、ということを表しているとの見解を現在の広島市はとっている。当時の広島市長も同様の考え方であったという。

 この碑文の英語訳では、主語は『We』となっており、見方によっては何とでもとれる漠然とした表現である。Weを『人類全体』と解釈するのはいささか飛躍していないだろうか。Weは『我々日本人』とも解釈可能であろう。

 『過ち』は我々日本人だけではなく、世界中の国々が『過ち』を犯したし、犯す可能性がある。原爆の唯一の被災国であり原爆非保有国である日本としては『繰返しませぬから』という表現よりも、『繰返させませぬから』という積極的な表現をとるべきではなかろうか。

 「原爆死没者慰霊碑」の南側、かなり離れた場所に「広島平和記念資料館」が建てられている。
広島平和資料記念館
 左の写真は北側から見た「広島平和記念資料館」で、写真中央の横に細長い建物が「本館」である。「本館」の手前中央に「原爆死没者慰霊碑」が見え、更にその手前やや左側に「平和の灯」が見える。

 「広島平和記念資料館」の「本館」中央付近から北側を見ると「原爆死没者慰霊碑」、「平和の灯」、「原爆ドーム」が直線上に位置しているのがわかる。

 「広島平和記念資料館」には「東館」と「本館」があるが、特に「本館」には原爆被爆者の遺品、被爆資料など原爆による被害状況を直接伝える物品が展示されており、大なり小なり太平洋戦争を体験した者にとって涙なくして見ることができない。戦争を全く知らない人々もゆっくりと見学し、是非とも戦争、そして原爆の悲惨さを認識してもらいたいものである。

 それにしても平和記念公園の内や付近には『平和』と名の付けられたものがやたらと多い。これだけ平和の言葉が溢れると本当の意味の『平和』が薄れてしまうのではないかと危惧する。

 この「原爆ドーム」と「平和記念公園」とを観光スポットとして掲載するについて若干の抵抗感があったが、『我流』ということで自分自身を納得させることにした。

最終更新:2010年10月22日
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