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京都山科「毘沙門堂」


所在地及びアクセス:

 京都市山科区安朱稲荷山町18

 JR東海道本線「山科」駅又は京阪京津線「山科」駅下車。京阪京津線の線路に沿って細い道を東の方向へ約200m進む。毘沙門堂に向かう標識があるので、左折し北の方向に向かって道なりに直進すると「毘沙門堂」に着く。駅から徒歩約20分。

毘沙門堂境内諸堂配置:
毘沙門堂諸堂配置図

縁起:
毘沙門堂朱印
 毘沙門堂は大宝3年(703年)に文武天皇の勅願により行基によって開創されたといわれている。当初はこの地にあったのではなく、前身は現在の上京区の出雲路にあったことから、かつては出雲寺とよばれていた。

 中世には荒廃したが、天海僧正が再興のため努力し、寛文5年(1665年)に天海大僧正の弟子の公海大僧正により現在の地に再建された。その後、後西天皇の皇子公弁法親王が入寺し、隠棲したことから門跡寺院となった。

 伝教大師が唐よりもたらした鎮将夜叉法という行法は、天台五箇大法の一つとして当門跡だけに伝わる秘法である。また、本尊の毘沙門天は天台宗の宗祖であり比叡山を開いた伝教大師の作で、延暦寺根本中堂の本尊薬師如来の余材を用いて刻まれた仏像であると伝えられている。

見所など:
極楽橋
 毘沙門堂の境内入り口に当たるところに小さな石橋がある。この橋は「極楽橋」(左の写真)と名付けられているが、後西天皇がこの地に来られたとき、橋より上はさながら極楽浄土のような清浄華麗な霊域であると感嘆され、極楽橋の名前を賜ったことに由来しているといわれている。

 後西天皇から名前を賜ったときの橋がそのまま残っているとは考えられないが、橋が架け替えることはあっても名称だけがそのまま継承されているのであろう。
寺名石碑
 橋を渡ると寺名が彫られた石柱(左写真)が目に付く。この前を左に曲がると直ぐに石段があり、この石段を上がると仁王門を通して本堂前に着く。
石段上の仁王門遠望
 石段下から石段の上にある朱塗りの「仁王門」(左の写真)を遠望することができる。石段は最初は緩やかであるが、途中からかなり急勾配になる。写真でわかるように石段中央には手すりが付けられており、年配者は手すりにつかまりながら上り下りする人が多い。
仁王門近景
 左の写真は石段を上がりきったところにある「仁王門」の近景である。この門は本堂への表門にあたる。写真ではよくわからないが、左右に阿吽の二天像が安置されている。

 この門は毘沙門堂が再建された寛文5年(1665年)に建立されたといわれているが、勿論、建立以来何回かの修復が行われているのは見ただけでもわかる。
仁王門内側
 左の写真は「仁王門」を内側から見たものである。近年に修復が行われたと思われ、朱塗りが鮮やかであり、近接している土塀と比べて派手さが目立つ。

 「仁王門」をくぐると「本堂」が見えるが「本堂」の前は一寸した広場になっている。
唐門と本堂(1)
 左の写真は「唐門」とその奥に建てられている「本堂(本殿)」である。「唐門」、「本堂(本殿)」共に朱塗りが鮮やかであり、近年に修復されているものと思われる。

 「本堂」は縁起の項に記載したように、寛文5年(1665年)に天海大僧正の遺志を受け継いだ公海大僧正が再興、再建したものである。本尊は伝教大師の作と云われている「毘沙門天」を安置している。本尊は秘仏になっている。
唐門と本堂(2)
 左の写真も「唐門」と「本堂(本殿)」を本堂正面からやや東寄りの位置で撮影したものである。

 写真に写っていないが「本堂(本殿)」の北側に隣接して「霊殿」が建てられている。「霊殿」は元禄6年(1693年)に第三世公辨法親王の建立によるものといわれ、阿弥陀如来を中に、歴代の影像、位牌が安置されている。
霊殿の天井龍の絵
 「霊殿」の天井には左のコピー(毘沙門堂の参拝パンフレットよりコピー)に見られるような「天井龍」の絵が描かれている。この龍は霊殿の守護龍とされ、狩野永叔主信の作によるといわれている。

 天井を仰ぎ、龍を見ながら部屋の中を一巡すると、龍の眼の向きが見る角度によって変わるようにみえる。
宸殿
 「霊殿」の西側、「本堂」から見て西北の位置に「霊殿」から廊下を介して「宸殿」(左の写真)が建てられている。「宸殿」はTとUに分けられており、両者は外観からは別棟になっているようであるが、内部は密接しており廊下を境に区分されているように思われる。

 「宸殿」は御所にあった後西天皇の宮殿を元禄6年(1693年)に移したもので、「宸殿T」にある襖絵は「うごく襖絵」として知られている。また、「宸殿U」に置かれている「鯉の絵」も著名である。
宸殿Tにある襖絵
 左のコピー(毘沙門堂の参拝パンフレットよりコピー)は「宸殿T」にある襖絵の一つで狩野益信の作とさている。この襖絵は「うごく襖絵」と呼ばれているが、ふすまえそのものが動くわけではなく、見る角度によって襖絵が変化して見えることに由来している。例えば描かれている机の形を見ると通常の遠近法が用いられていない。奥に向かって広がるような逆遠近法で描かれていることにより、見る角度によって変化するように見える。
宸殿Uに置かれている鯉の絵
 左のコピー(毘沙門堂の参拝パンフレットよりコピー)は「宸殿U」に置かれている鯉の絵である。左のコピーでは鯉の姿はよくわからないが、円山応挙の真筆とされている。この絵の鯉を見ながら前を通ると、鯉が見る人についてくるように見えるといわれている。
玄関
 「玄関」(左の写真)は「宸殿U」の方につけられている。写真右端に屋根の一部が見えているが、これが「宸殿T」で「玄関」の背後に見えるのが「宸殿U」である。
晩翠園(1)
 「宸殿T」の北側には庭園「晩翠園」(左の写真)が広がっている。「晩翠園」は谷川の水を引いて造った江戸時代初期の回遊式庭園である。左の写真は紅葉の季節の「晩翠園」で、その景観はすばらしい。

 左の写真は庭園の中心部の池のある部分である。
晩翠園(2)
 「晩翠園」はかなり広く、直上の写真より更に広い領域を紅葉の季節に撮影したのが左の写真である。
勅使門
 「宸殿」の南側は一寸した広場になっており、この広場を隔てて南側に二つの門がある。「宸殿U」の玄関に近い方の門は「薬医門」であり「宸殿T」の南側ある門は「勅使門」である。

 左の写真は「勅使門」を表側(南側)、即ち参道側から見たものである。「勅使門」は後西天皇より拝領した門で毘沙門堂の総門に当たる。かつては天皇の行幸、現在は毘沙門堂門主の晋山式以外は開門されない開かずの門である。
勅使門前の参道
 「勅使門」の表から南側に延びている参道の両側は季節になると見事に紅葉し、紅葉のトンネルができる(左の写真)。左の写真では参道に紅葉の落葉が見られないが、もう少し季節が進むと落葉し、参道はあたかも赤い絨毯を敷いたような状態となる。
弁才天
 「仁王門」をくぐって本堂に向かう参道を唐門の手前で右の方向(東の方向)に進むと右手に「経蔵」、その奥に鳥居があり、鳥居の北側の小高い場所に「弁才天」が建てられている(左の写真)。
弁才天前から本堂と霊殿を望む
 「弁才天」に上がる階段の手前で見た西側の紅葉景観が左の写真である。写真左に見えるのは「本堂」の一部で右側に見えるのが「霊殿」の一部である。
弁財天から見た南側の紅葉
 「弁才天」から南側を見たのが左の写真である。弁才天から見た紅葉の景観も見事である。
弁財天から本堂側の紅葉(1)
 「弁才天」から見た「本堂」方向の紅葉景観である。この方向の紅葉の風景もすばらしい。
弁財天から本堂側の紅葉(2)
 左の写真も直上の写真と同様「弁才天」から「本堂」方向を見たときの紅葉風景である。「弁才天」まわりの紅葉、「晩翠園」の紅葉は共に秋の「毘沙門堂」を見事に彩る。

 

 「毘沙門堂」は数多い京都の紅葉名所の中でも、知る人ぞ知る紅葉の名所の一つであるが、紅葉観光の名所としては一般には特別に著名というわけではない。観光客は紅葉の季節や桜の咲く頃は結構多いが、大型観光バスが入るには道路事情が良いとはいえない。これが紅葉観光の名所としてもう一つということにつながっているのかもしれない。

新規収載:2014年12月18日

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