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北野天満宮
(きたのてんまんぐう)
北野天満宮所在地図北野天満宮へのアクセス

 京福電鉄北野線「北野白梅町」駅下車、広い通り(今出川通)を東の方向へ徒歩約5分で天満宮の一の鳥居が左手に見える。
 JR「京都」駅から京都市バス[50]系統(立命館大学前行)又は[101]系統(二条城・北野天満宮・金閣寺行)に乗車し「北野天満宮前」で下車すぐ。
 阪急京都線「河原町」駅から京都市バス[203]系統(西大路四条・北野白梅町行)又は[51]系統(立命館大学前行)に乗車し「北野天満宮前」で下車すぐ。
 京阪「三条」駅から京都市バス[10]系統(北野天満宮・山越行)に乗車し「北野天満宮前」で下車すぐ。

祭神、神徳


菅原道真(すがわらみちざね)
 学問の神様として有名である。ただ、
菅原道真は学者でありながら俗人臭いところがあったように思われ、祭神と表現するのは何となく違和感があるように感じられてならない。

由緒、伝説
朱印
 菅原道真(天神)は延喜3年(903年)に太宰府で無念の死をとげ昇神したといわれているが、彼の没後、京都で災害が頻発し、これが道真の怨霊の祟りとして恐れられたと伝えられている。

 天慶5年(942年)に右京七条の巫女、多治比文子(たじひあやこ)に道真から『北野に社殿を造り自分を祀るように』との御託宣があったという。

 道真の霊を鎮めるため、文子は当初、自宅の庭に瑞垣を造り祀っていたが、北野の朝日寺の僧、最鎮に相談し、天暦元年(947年)に現在の地に祀るようになったとされている。

 最初は道真の霊を鎮めると共に皇城鎮護の神として祀られていたようであり、一条天皇が行幸されて以来、代々の天皇の行幸が数多く、皇室の崇敬、国民の信仰も厚かったようである。

 江戸時代になって幕府は庶民の教育機関として全国に寺子屋を設立させた。その際、精神的な支柱として、かつて学者であった道真の神霊を分霊し全国に奉斎したという。

 以来、神霊は「天神様」と称され学問の神として信仰されるようになったといわれている。
一の鳥居
鳥居

 車の往来の激しい今出川通に面して巨大な「一の鳥居」が建てられている(左の写真)。鳥居をくぐり、参道を北の方向に進むと「二の鳥居」次いで「三の鳥居」があり、「楼門」までの間に三つの鳥居が建っている。
楼門
 楼門

 「三の鳥居」の北側に堂々とした造りの「楼門」が建っている(左の写真)。

 北野天満宮は梅の名所としてよく知られており、楼門をくぐった境内にも多数の梅の木が植えられている。梅の木が約2000本植えられているといわれている「梅苑」は楼門手前の西側にある。
牛の石像
牛の像

 左の写真は「楼門」をくぐってすぐ右側にある「牛の像」である。このように牛をかたどった像は大小とり混ぜ境内に多数置かれている。

 これは、牛は天神さんのお使いといわれているからであろう。

 また、体の悪い部分と牛のその部分を交互に撫でると悪い部分が治るといわれている牛の像もある。
三光門
三光門(中門)

 「楼門」をくぐり参道を奥に進むと、「三光門(中門)」に着く(左の写真)。

 現存の「三光門」は、慶長12年(1607年)に豊臣秀吉の遺命に基づき、豊臣秀頼の寄進によって建てられたものとされている。

 「三光門」には見事な彫刻が数多く施されている。直下左の写真は門の通路の上中央にある彫刻である。
三光門の彫刻 字額
 また、「三光門」に掲げられている『天満宮』と書かれた額(直上右の写真)は後西天皇の筆になる勅額であるといわれている。

 「三光門」重要文化財に指定されている。
拝殿
拝殿

 「三光門」の奥に中庭があり、その奥に「拝殿」が建てられている(左の写真)。

 拝殿の正面向かって左側には桜、右側には松が植えられているが、これの持つ意味はよくわからない。
 
拝殿正面近景
 左の写真は「拝殿」の正面近景である。よくみるとかなり派手な感じに造られているが、拝殿前に立つと厳粛さのほうが勝っており、一寸目には派手さが隠されてしまう。

 現存の「拝殿」及び後述の「本殿」等の社殿は慶長12年(1607年)豊臣秀吉の遺命に基づき豊臣秀頼が片桐且元を奉行として造営したものといわれている。

 「拝殿」国宝に指定されている。
本殿
本殿

 左の写真は東背面から見た「本殿」である。「本殿」の左側奥に見えているのは「拝殿」の屋根で、「本殿」と「拝殿」は「石の間」で繋がっている。

 社殿の屋根は変化に富んだ構成になっており、「八棟造」とよばれているようで、桃山建築の代表とされている。

 「本殿」、「石の間」国宝に指定されている。
織部形灯籠
織部形石灯籠


 「三光門」前東側に、かなりの時代物と思われる石灯籠が立っている(左の写真)。

 この灯籠は元和元年(1615年)に死去した古田織部正重能の墓にあるものの形に因んで「織部形石灯籠」と名付けられたとされており、茶人好みの石灯籠の形式の一つという。

 この灯籠の下部(脚部)にマリア像(?)の彫刻があり(写真でもわかる)、このため「マリア灯籠」とか「キリシタン灯籠」とも呼ばれているらしい。ただ、
この彫刻をマリア像とするのには客観的に見て無理があるような気がする。この彫刻をマリア像とする根拠が他にあるのだろうか。
文子天満宮
末社、文子天満宮


 北門を入ったところ門の傍に、北野天満宮の末社である「文子天満宮」が建っている(左の写真)。

 上記「由緒、伝説」の項で記述したように、菅原道真を祭神として北野天満宮を創建するきっかけを作った多治比文子を祀っている神社である。

 当初、西の京に祀られていたが明治6年(1873年)にこの地に移したとされている。

絵馬


 「楼門」をくぐって左側に「絵馬」を書く場所、その「絵馬」を奉納する場所が設けられている。奉納する場所にはおびただしい数の絵馬がかけられているが、学問の神様への祈願であることから、その多くは受験合格のお願いである。
絵馬(1) 絵馬(2) 絵馬(3)
 直上の三枚の写真は奉納されている「絵馬」の例である。絵馬に願いを書く面の裏側には、もともと馬の絵が描かれているのが普通であるが、北野天満宮の絵馬には天神さんのお使いとされている牛の絵が描かれている。

 直上左側の写真に写っている絵馬は、三つもの大学の名前が書かれた合格祈願であるが、
このようにお願いを欲張ったものは神様が聞き入れてくれないとされている。中央の写真に写っている絵馬には『行きたい高校に行く』と書かれており、祈願になっていないが、これはこれで若者らしいわがままな決意が出ているものとして面白い。右側の写真は受験合格とは関係のない絵馬の例である。
北野天神縁起の雷神
 建造物以外の文化財

 「楼門」をくぐって右側に「宝物殿」が建っており、ここに「宝物」が保存展示されている。

 宝物館に入り先ず目につくのは、中央のガラスケースに納められ展示されている「北野天神縁起」である。左のコピーは「北野天神縁起」巻六に描かれている清涼殿落雷の場面の雷神である(北野天満宮発行の宝物殿パンフレットより)。
雷神がユーモラスに描かれていて面白い。「北野天神縁起」は菅原道真の一生・死後怨霊などを描いたもので承久元年(1219年)頃の作といわれ、国宝に指定されているが、展示されているものは複製品であることが一見してわかる。

 兼永本と呼ばれている「日本書紀」も展示されている。この「日本書紀」は鎌倉時代の写本であるが、書紀の校本として貴重なものとされ重要文化財に指定されている。展示品は複製品でなく本物のようである。

 他に太刀や絵画、硯箱など10点ほど重要文化財に指定されている宝物が所蔵されているようであるが、重要文化財に指定されているもので展示公開されてものは少ないようである。
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Yukiyoshi Morimoto