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丹生川上神社 中社
(にうかわかみじんじゃ なかしゃ)
丹生川上神社へのアクセス(1) 中社へのアクセス

 近鉄大阪線「榛原」駅下車。駅前のバス停「榛原駅」から奈良交通バス「菟田野町(うたのちょう)」行きに乗車し、終点のバス停「菟田野町」で下車する。「菟田野町」で一まわり小型のバス「大又」行きに乗り換え、「蟻通(ありとおし)」で下車する。丹生川上神社中社の直ぐ傍にバス停「蟻通」がある。
 「榛原駅」から「菟田野町」までは平日、土日祝日とも1時間に2〜3便あるが「菟田野町」から「蟻通」を通る「大又」行きのバス便が少ないので、連絡の良いバス便を選ばないと「菟田野町」で長時間待たされることになる。バス停「菟田野町」の周辺は田園地帯であり、時間をつぶす方法がないので要注意。
 バス運賃(2000年9月現在)は「榛原駅」から「菟田野町」まで510円、「菟田野町」から「蟻通」まで650円で、かなり高額感がある。
 「榛原駅」で次の発車時刻(8:00〜19:00の間を記載、特に明記ない限り平日、土日祝日何れも同じ)の「菟田野町」行きバスに乗れば、「菟田野町」での乗り換え待ち合わせ時間が5〜20分であり、連絡がよい。
丹生川上神社へのアクセス(2)  榛原駅発9:02、[8]、蟻通着9:57。 榛原駅発10:32(土日祝は10:33)、[8](土日祝は[7])、蟻通着11:27。 榛原駅発11:10、[5]、蟻通着12:02。 榛原駅発12:30、[12]、蟻通着13:29。 榛原駅発14:30、[8]、蟻通着15:25。 榛原駅発15:30、[13]、蟻通着16:30。 榛原駅発16:10、[20]、蟻通着17:17。 榛原駅発17:32、[11]、蟻通着18:30。 榛原駅発18:44、[10]、蟻通着19:41。 [ ]内は菟田野町での待ち時間(分)。
 「蟻通」から「菟田野町」行きのバス発車時刻(8:00〜20:00の間を記載。平日、土日祝全て同じ)は次の通り。いずれも「菟田野町」で「榛原駅」行きに3〜7分の待ち合わせで連絡している。
 蟻通発8:49、榛原駅着9:54。 蟻通発11:02、榛原駅着11:54。 蟻通発12:27、榛原駅着13:19。 蟻通発14:27、榛原駅着15:19。 蟻通発16:14、榛原駅着17:05。 蟻通発17:27、榛原駅着18:18。 蟻通発19:25、榛原駅着20:16
 以上、バスの時刻は全て2000年9月現在。


祭神、神徳

罔象女神(みずはのめのかみ)
 罔象女神は伊勢神宮の天照大神とは姉妹の関係にあり、両親である伊邪奈伎、伊邪奈美の大神が具えていた神徳の内、水に関する一切の神徳を授けられた神であり、日本最古の水神とされている。後述するように、由緒や神徳などから見て神様の名前は違っても上社及び下社の祭神と同一の神様と推測される。

 雨乞い、止雨の祈願として、農家、水利業者の崇敬をあつめるとともに、水源地やダムの守護神としても崇敬され、電力会社、都市の水道関係からも篤く信仰されているようである。
朱印
由緒

 丹生川上神社は本来は一社であるべきであるが、現在、三つの神社が丹生川上神社を名乗っている。即ち、それぞれ上社、中社、下社と呼ばれているのがそれである。

 丹生川上神社は天武年間(673〜687年)に創祀されたと伝えられているが、三つの神社の内、何れが本来の丹生川上神社かについては明確ではないようである。

 水神が祀られはじめた時期は不明であるが、神武天皇の時代にさかのぼると推測されている。白鳳4年(675年)に天武天皇により神社としての形が出来上がり、これが当神社の創祀と伝えられており、かつては蟻通神社と呼ばれていたようである。後、寛平7年(895年)の太政官符に丹生川上神社のことが明記されており、そこに記載されている地名から当神社が本来の丹生川上神社であることを当神社の神官が見出したといわれている。これが認められ大正11年(1922年)に丹生川上神社中社の指定をうけたという。

 皇室の丹生川上神社に対する崇敬は篤く、奈良時代には天皇、皇后の行幸は50余回に、また、奉幣祈願は応仁の乱に至るまで100回近くに及んだとされている。応仁の乱で殆ど焼失し、以後、神社の様相は一変したといわれている。
鳥居
鳥居、神社名

 バスの通る道路に面して朱塗りの「鳥居」が立てられている(左の写真)。

 「鳥居」の左側に石碑が立っており、それには『丹生川上神社』と刻まれており、「鳥居」に掲げられている額の文字も『丹生川上神社』となっている。また、神社境内に掲げられている重要文化財の標識、朱印、神社発行の略記記載のパンフレットなど、何れも神社名が『丹生川上神社』になっており、『中社』の文字が見られない。

 上社や下社と異なり、『丹生川上神社』が中社の正式名称になっているようである。これは宗教法人の登録をする際、『中社』の名称を付けなかったことによるらしい。中社は文献考証から、自社が本来の丹生川上神社であるとの見解を持っているようである。


 なお、丹生川上神社の上社、中社、下社の名称と神社の格とは無関係である。
拝殿と大杉
拝殿と叶大杉

 「鳥居」をくぐると広場があり、奥の石段を上がると正面に「拝殿」がある(左の写真で中央より左側に見えているのが拝殿)。「拝殿」はかなり大きく落ち着いた佇まいである。

 「拝殿」は文政12年(1829年)〜天保元年(1830年)に大修理が行われたとされている。

 「拝殿」の右手(東側)に大きな杉の木がある(写真では右端に見えている)。この杉の木は「叶大杉」と呼ばれ、両手を木に当て願い事を唱えるとそれが叶えられるという。
蟻通燈籠
燈籠

 「拝殿」の左手(西側)に「蟻通燈籠」と刻まれているかなり時代物の燈籠が立っている(左の写真)。この燈籠はこの神社が『蟻通神社』と呼ばれていた頃に造られたのものであろう。

 神社の本殿の右手に
重要文化財に指定されている弘長四年(1264年)銘の「石燈籠」があるが、本殿の前に行かなければ見ることができない。その石燈籠と、この蟻通燈籠とは形状が極めて類似している。

吉野離宮址

 「拝殿」の左手、拝殿が建っている広場の西南隅に「吉野離宮址」と書かれた石碑が建てられ、石碑の周りを丈の低い生垣で囲った場所がある(直下の写真)。
吉野離宮址
 国家に大事のあるときには、天皇は祈願のために丹生川上神社に行幸されたが、その際宿泊された場所が吉野離宮であるとされている。

 吉野離宮は当神社の背後の小牟漏(おむろ)岳の麓、丹生川上神社の神域にあったと考えられており、それに因んで石碑が建てられているのであろう。

 ただ、平安朝になってからは、行幸が絶えたようで、従って、離宮も荒廃したという。
本殿
本殿

 「拝殿」の奥にある石段を上がったところ、山の斜面を背にして「本殿」と「東西殿」が建てられている(左の写真:西側から見た本殿と西殿)。

 「拝殿」の奥の石段には通常、障壁が設けられており、本殿の前に近づくことはできないようになっている。拝殿や拝殿の建っている広場からは「本殿」の全容を見ることはできない。


 「本殿」は文政12年(1829年)〜天保元年(1830年)に大修理されたようで、重要文化財に指定されている。
蟻通橋
 蟻通橋

 「鳥居」の前の道路を東の方向に数十メートル進むと丹生川にかかっている「蟻通橋」がある(左の写真)。

 この橋は「神橋」とも呼ばれているようで、本社と摂社である丹生神社とを連絡している。橋は丹生神社のみのためにあるのではなく、大又までのバスの通る道路であり、一般車両も通行している。
摂社丹生神社本殿
 この橋の上から見る風景は『・・・辺りの景色得も云わずよし』と賞賛されているというが、山深い里の川辺で普通に見られる景観であろう。

摂社丹生神社

 「蟻通橋」を渡ると、直ぐ右手に丹生川上神社の摂社「丹生神社」が建てられている。左の写真は摂社「丹生神社」の「本殿」である。

 「本殿」は簡素な建物であり、修理が行われてからあまり日時が経過していないように思われる。

 摂社丹生神社の
「本殿」重要文化財に指定されている。
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Yukiyoshi Morimoto