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所在地及びアクセス: 京都府八幡市八幡高坊 |
京阪電車本線「八幡市(やはたし)」駅下車、西側にある男山ケーブル線「八幡市」駅からケーブルに乗車し「男山山上」駅下車。西参道を徒歩6〜7分上がると社殿(本殿)に向かう参道に着く。ケーブルは通常、1時間に4便。 ケーブルを利用しないで表参道を徒歩で上ることもできる。京阪電車「八幡市」駅下車、東の方向に数10m進み、南に向かうと石清水八幡宮の「一の鳥居」が見える。それをくぐり、石清水八幡宮頓宮の中を通り、表参道を上がると「三の鳥居」につく。ここから直線状の参道が社殿(本殿)まで続いている。 アクセスの詳細については下記の「アクセスの詳細」の項参照して下さい。 |
アクセスの詳細: |
ケーブルを利用する場合は男山山上駅を出て右手の方(西参道)に進む。左側の石段を上ると展望台に着くので注意すること。左図の通り、道なりに進み、右手に「湧峯塔(シンボルタワー)」、休憩所を見て短い石段を上がると参道があり、左手に社殿(本殿)前の「南総門」が見える。 ケーブルを利用しない場合、京阪電車「八幡市」駅を出て、東の方向に数10m進み、南に向かうと石清水八幡宮の「一の鳥居」が見えるので、それをくぐり、「石清水八幡宮頓宮」の境内を通り抜ける。「頓宮南門」をくぐり、南の方に進む(後掲する石清水八幡宮頓宮の地図参照)。次いで「二の鳥居」をくぐり、七曲がりと呼ばれているつづら折りの参道を上る。これが「表参道」と呼ばれている参道で、これを道なりに上ると右手に「三の鳥居」が見える。「三の鳥居」を通して約250m先に社殿(本殿)前の「南総門」が見える。 詳しくは後掲の社殿配置図を参照のこと。 |
祭神: |
中御前: | 応神天皇(おうじんてんのう) [誉田別尊(ほんだわけのみこと)] |
西御前: | 比淘蜷_(ひめおおかみ) [多紀理毘売命(たぎりびめのみこと)・市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)・多岐津比売命(たぎつひめのみこと)] |
東御前: | 神功皇后(じんぐうこうごう) [息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)] |
由緒、神徳: |
貞観元年(859年)、大分県の宇佐八幡宮に籠もり修行をしていた大和大安寺の僧行教は八幡大神から『吾、都の近くにある石清水男山の峯に移座して国家を鎮護せん』との御託宣を受け、このことを朝廷に奏上したのが「石清水八幡宮」の起源と伝えられている。 清和天皇の命を受け木工、権允橘良基(ごんのじょうたちばなよしもと)は男山に六宇の宝殿を建立し、貞観2年(860年)に遷座が行われたとされている。しかしながら、これには宇佐八幡宮の神官大神氏が和気清麻呂一派や行教と組んで都への進出を図ったものという説もあるようである。 天慶2年(939年)の平将門、藤原純友の乱では、朝廷の請願があり八幡大神の神威により速やかに平定されたという。それ以来、国家安泰、都の守護の神社として朝廷の崇敬は益々篤いものになったようで、天皇、上皇の行幸は数多くとり行われたといわれている。また、源氏一門は八幡大神を氏神とし、格別の信奉をはらってきたようである。 以来、国民にも勝ち運の神、厄除け開運の神として崇敬され、現在でも全国屈指の厄除けの神社として有名である。 |
石清水八幡宮頓宮の社殿等配置と見所など: |
ケーブルを利用しないで表参道を歩いて神社まで上がる場合(アクセスの項参照)、「一の鳥居」をくぐり、頓宮の敷地内を通ることになる。 左の図は石清水八幡宮頓宮の主な社殿等の配置を表したのものである。 |
左の写真は石清水八幡宮の表参道入口に立っている「一の鳥居」である。 「一の鳥居」はかつては木造だったが、寛永13年(1636年)に石造りに改められたとされている。鳥居の笠木・島木の切り方や左右の柱の建て方が上に行くほど狭くなっている形式など、八幡鳥居の特徴を表しているという。 |
鳥居中央上部に左の写真に見られるような「額」が掛けられている。 額の字形に特徴があり、八幡宮の『八』の字は向かい合った二羽の鳩が互いに顔だけを外に向けた形に作られている。この額は一条天皇の勅額で、天皇の勅により藤原行成が長徳年間(995〜999年)に書いたものを松花堂昭乘が元和5年(1619年)に正確に書写し、それを銅製の額に打ち出したものであるという。 |
「一の鳥居」をくぐり、右手に放生池を見て南の方向に進むと「頓宮北門」(左の写真)に着く。 この門はもとは昭和天皇の即位に際し京都御所にある春興殿の正門として建てられたもので、大礼終了後、昭和3年に下賜され此処に移されたものといわれている。 |
「頓宮北門」を通り南に向かうと直ぐに南向きに建てられている「頓宮殿」(左の写真)が目につく。 頓宮とは一般の神社でいう御旅所であり、祭礼の時に神輿が一時滞在する場所であるが、当宮は格式が高いので御旅所と言わず、頓宮と呼ばれているという。 「頓宮殿」は見るからに古色蒼然としているが、近く修理されるようである。 |
「頓宮殿」前の広場南側に「頓宮南門」(左の写真)がある。写真は「頓宮南門」を外側(南側)から見たもので、門を通して「頓宮殿」が見えている。 以前の南門は明治元年(1868年)に兵火で焼失し、70年間再建されていなかったが、昭和13年(1938年)に山上にある本宮の南総門が新築されたのを機会に本宮の旧南総門をこの場所に移築した。これが現在の「頓宮南門」である。 南門には回廊がつけられているが、頓宮を囲んでいるものではなく、L字型の不完全なものである。 |
石清水八幡宮(本宮、上院)の社殿等配置と見所など: |
左の図は石清水八幡宮(本宮)の社殿等配置を表したものである。 アクセスの項にも記載したように、ケーブルを利用した場合は、西参道を通り社務所の近くに出るので、三の鳥居をくぐらない。ケーブルを利用せず頓宮を通り表参道を通って来た場合は三の鳥居をくぐることになる。 |
表参道を上りきると左手に「神馬舎(じんめしゃ)」(左の写真)、右手に「三の鳥居」(後述する)が見える。 「神馬舎」は昭和34年(1959年)に建てられた約20uの小さな北向きの建物で、現在、ここに五代目彌櫻号が飼われている。この馬は昭和58年(1983年)に吹田市の木下氏によって奉納されたと言われている。 |
表参道を上がりきると右手に「三の鳥居」(左の写真)が見える。鳥居の手前から北北西の方向に南総門を通り社殿(本殿)まで真っ直ぐ参道が延びている(社殿等配置図参照)。 かつて、この鳥居は木造だったようであり、その後、江戸時代に石造りに建て替えられたが、昭和36年(1961年)の台風で倒壊した。現在の鳥居は昭和37年(1962年)に建てられたものである。 なお、台風で倒壊した際に鳥居は砕けたが、右側の柱に刻まれていた銘文の部分は新しく建造された鳥居にそのまま使用されているという。 |
「三の鳥居」から北北西の方向に直線状に伸びている参道の両側には左の写真に見られるような石造り灯籠が並んで建てられている。こういう場所に並んで立っている灯籠の形は一定しているのが多いようであるが、この場所に立っている石灯籠は形がまちまちで画一的になっておらず面白い。 |
ケーブルで上がった場合の参道は「神馬舎」などを直接見ることのできる場所には着かない。したがって、これらを見るためには「三の鳥居」の方向へ向かって若干歩く必要がある。 |
「三の鳥居」と「南総門」の間の参道途中東側に社務所があるが、その南側の書院石庭の隅に六角型の「石造り灯籠」(左の写真)が建てられている。 この「石造り灯籠」には永仁3年(1295年)の銘が刻まれているようで、重要文化財に指定されている。700年以上風雪に耐えてきた歴史を十分に感じさせる灯籠である。 |
「三の鳥居」から直線的に伸びている参道は「南総門」(左の写真)まで続き、それを越えて社殿(本殿)前まで延びている。 現存している「南総門」は他の主要な社殿と同様、寛永11年(1634年)に三代将軍徳川家光によって建造されたものといわれており、重要文化財に指定されている。 「南総門」自体は格別大きいものではないが流麗な感じのする門である。 |
「南総門」をくぐると参道奥に回廊に囲まれた「社殿(本殿)」(左の写真)が見える。 石清水八幡宮では回廊に囲まれた社殿全体を「本殿」と呼ぶこともあるようであるが、祭神が祀られている建物を本殿と呼ぶのが通常であると思われるので、回廊に囲まれた建物全体は「社殿」と呼ぶのが普通であろう。 |
左の写真は「社殿」正面近景である。手前に「楼門」があり、奥に向かって「舞殿」、「弊殿」と続き、その奥に上述した祭神が祀られている二棟の「本殿」がある。これら建物全体は延長約180mの回廊で囲まれている。写真でもわかるように社殿の屋根に特徴がある。これは楼門の屋根であり、普通の屋根の上に大きな神輿が乗っているように見え、何となく安定性に欠けたような感じがする。 「社殿」は貞観2年(860年)に建立遷座以来、14回の造営、17回の修理が行われたという。現存の「社殿」は寛永11年(1634年)に三代将軍徳川家光によって建造されたものといわれている。以来、何回か修理を重ね、前回は昭和42年に行われたが、老朽化に伴い平成の大修理が計画され、「本殿(社殿)」の修理事業は平成21年(2009年)4月に竣功し、祭神は仮本殿から本殿に遷座した。続いて、頓宮殿、南総門、境内摂末社の補修が行われる予定とされているようである。 現存の「本殿」、「幣殿」、「舞殿」それに「回廊」等の建物は全て重要文化財に指定されている。 写真でもわかるように、「社殿」までの石畳の参道が「社殿」に対してある角度をもってつけられている(下記参照)。 |
「社殿」(左図では本殿になっている)と参道との方角関係を示したのが左図である。 社殿はほぼ正確に南向きに建てられているが、社殿に至る参道は社殿の向いている南北軸の延長方向に延びておらず、社殿の向いている南北軸と参道の向きは図のA点で折れ曲がっており、参道はA点からやや東向きに延びている。 これは、参拝者が参拝後に帰るに際し、本殿の祭神に対し真っ直ぐに尻が向かないように配慮しているためという。 |
左の写真は「社殿」の外側から社殿内部を見たものである。平成21年(2009年)4月に大修理が竣功した直後だけあって、朱塗りが鮮明で非常に奇麗である。 写真で最も奥に見えている場所が本殿と思われるが定かではない。 |
左の写真は「社殿」北側(裏側)とそれを取り囲んでいる回廊である。「社殿」は平成21年(2009年)に修理を行ったが、回廊の欄干や回廊を支えている基礎などは朱塗りも十分ではなく、修理が行われたように見えない。 |
左の写真は社殿北東側に建てられている摂社「若宮殿社」である。 「若宮殿社」の祭神は応神天皇の皇女で貞観11年(869年)に鎮座、神徳は祈願成就、心身健康で女性の守護神とされている。 |
「若宮殿社」の西側に隣接して摂社「若宮社」(左の写真)が建てられている。「若宮殿社」に比べこちらは一回り大きい。 「若宮社」の祭神は仁徳天皇で貞観11年(869年)に鎮座、神徳は祈願成就、学業成就で男性の守護神とされている。 厄除開運祈祷をうけた人は、「清め衣」(リボン状の布)に名前、年齢、願い事を書いて志納金を添えて、男は若宮社に、女は若宮殿社に納めるようになっている。奉納された「清め布」は毎月、諸願成就を祈念した後、焼却されるという。 |
「社殿」の北西側に高床式の建物「校倉(あぜくら)」(左の写真)が建てられている。 この場所には以前は経蔵が建てられていたといわれているが、いつから校倉になったかはわからないという。 |
「社殿(本殿)」からかなり離れた場所、境内の南端に近い場所に高い塔「湧峯塔(シンボルタワー)」のあるのが目につく。その近くに「エジソン記念碑」がある。 |
左の写真は「エジソン記念碑」である。 エジソンが白熱電灯のフィラメントの材料を世界中に求めた結果、石清水八幡宮境内の真竹が最も優れているのを見出し、この竹を用いて初めて実用的な白熱電灯を完成したといわれている。このことを顕彰するため、神社の境内に昭和9年(1934年)に最初の記念碑が建てられたようであるが、その後、昭和59年(1984年)に現存の新しい「エジソン記念碑」が再建された。 |
「エジソン記念碑」には次のようなエジソンの言葉が書かれている。 Genius is one per cent inspiration and ninety-nine per cent perspiration. |
2009年7月20日最終更新 |
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